スリランカを教訓にしないのか2019/04/26 11:03

最近の10年間は穏やかだったというスリランカ。


その前は紛争が多かったが、中国がスリランカに爆撃機をやったら、紛争が終わったそうだ。

     A氏は言う。平和的解決をどれ程尽くしても争いは止まらず、それが
     爆撃機の1機で止まるとは何ということか。


中国はタダで爆撃機をやった訳ではなく、港を整備してやるから、と持ちかけて横取りすると言う、例の手を使っていた。それは小さな村。


     こうしてこの辺りの港を手に入れて、インドを包囲していると言う。


中国がその、港を整備してやるから、という時に、危険を感じて調べていたA氏に情報をもらいに来たM議員は、国会で質問したと言う。「中国は港を手に入れようとしているのではないか」  勿論、軍港にする為だ。


     この海域は日本にとって重要な場所、日本に出入りする船はここを通る
     貿易の要のシーレーン。


その時の外務省の返答は「いや、中国は完全に商業目的だと言ってるから、その懸念には当たらないと思う」というおバカなものだったそうだ。


     いつもいつもお花畑、ノーテンキ外務省。参考書の繰り返しで育って
     きた為に、外が見えないことが現れている。最も対人関係をしてこな
     かった人たちである為に外界が読めない。つまり、対外関係を最も
     不得意にしている人間たちが外務省にいるのだ、とわかる。


          私の親族に東大卒が多いが、了見が狭いことは間違い
          ない。よく言えば、同じことを繰り返して勉強する真面目、
          悪く言えば、それしか知らない、見えない、興味ない、
          箱入り。自分の損得が判断の基準。


     その為に、これまでどれ程日本の国益が失われてきたか、彼らの罪は
     大きい。


     彼らを外に出すな、外務省ビルに閉じ込めとけ、と言いたくなる。


この事件は、アジアにおけるテロの始まりと言われる。


     日本では譲位の式、G20、五輪など目白押し。私は当時、なんでいま
     どき日本で五輪は危ないだろ、と思ったものだ。


中国が港を取る手口、それを奄美大島でもやろうとしていることを前に書いた。


     人口数十人の漁村に、中国の大型観光船7000~8000人(これは
     1個師団にあたるそうだ。その意図が見える)をいれようとしている
     計画、その陣頭指揮を執るのがSガだと言うから、恐ろしい。


日本の外務省、官邸は、売国行動のオンパレード。


     彼らにまかせていたら日本国は無くなってしまう。彼らをしっかり見張
     る、国民の厳しい目が必要。


日本は政官はだめダメ、民の国なのだ。そう、皇室と民だ。このことを再確認する事件だった。いつも周囲に起きていることを見て教訓にせねば。

令和の真の意味2019/04/26 17:18

T氏が説明していた。きれいな情景がイメージされるものだったので、覚えておいて知人たちにも教えようと思う。


おおよそ、こんな感じだった。


万葉集の中に梅の花の32集がまとまっているところがあり、その冒頭に序文があって、その序文にて、梅にまつわる歌が詠まれた状況が記されているのだ。


令月にして、風やわらぐ。
初春にして季よく、風和らぎ、梅の花が咲き、蘭の香りがする。
ということだが、それからが大事だと言う。


序盤から説明すると:


時は天平二年正月十三日(旧暦)、季節は新春、所は大宰府。帥(そち、長官)大伴旅人の所にみんなが集まって宴(うたげ)をした。それは良い季節、穏やかなふわっとした風が吹いて、おしろいのように白い梅が咲いて、蘭は匂い袋のようにふわっと香っている。


- ここからが大事だそうだ -


向こうには山並みが見える。山には雲がかかっていて、手前には松の林がある。その松と雲が重なって見えて、まるで松が雲のベールをまとっているようで、衣笠(きぬがさ)をさしかけているような幻想的な風景。


向こうの山全体には霧がぼんやりとかかっていて、まるで薄絹(うすぎぬ)をまとっているようで、飛んでいる鳥は、その薄絹に封じ込められて林の中に迷い込んでいるように幻想的。


庭には今年生まれたばかりの蝶が飛んでいる。空には雁が飛んでいて、渡ってきていた雁がもう帰って行くのだろうか、という情景。


     この生まれたばかりの蝶にしても雁にしても縁起がいいと言う。


参加者たちはその幻想的な情景を見て、屋内にいるのは勿体ない、と庭に出た。天を屋根にし、地を蓆(むしろ。植物の茎で編んだ敷物)にして、和やかに宴を楽しむも、あまりにも素晴らしい情景にみな見とれて言葉を失った。


そこで、「この感動を会話では表せない、文筆にしなくてどうして心の中を表現できようか」ということで、梅の花を題にして和歌を詠むことにした。気が付けばみんな一心に和歌を書いているではないか。



ここまでの説明を聴いていたA氏は「う~ん」とうなった。「昔の人は風流と言うか、粋と言うか。今の花見だとみんな飲んだくれているだけ」と、述べた。


     確かに。どうりで私が花見にあまり惹かれなかった訳だ。歌の一つも
     詠んでみたい。これからはそういう集まりにしたいな、と思うのだった。


     特に呑兵衛はトイレ通いに忙しいだけ、だから、今後はみんなで風流に
     粋に過ごしたい。それでこそ花見をしたくなる。納得。



総括して、令和を元号にしたあらましを、このように説明していた。


エネルギーに満ちていて、運気が良い、そして人々が穏やかに和気あいあいと仲睦まじく、気付いたら詩心をかきたてられて文化活動に勤(いそ)しむという、そんな素晴らしいイメージを共有して過ごそうではないか。


こういう意味を知ってこれからの令和を過ごすのと、知らないで過ごすのとでは大きな違いです、と。